bar
文字サイズ
「自然」に魅せられて  
白神山地が育む奇跡の菌 高橋慶太郎(秋田県総合食品研究センター主席研究員)
発酵を促す酵母や乳酸菌には、さまざまな種類がある。じつは秋田県にそうした微生物をひそやかに育む場所があることをご存知だろうか。いまだ手つかずの原生林が残る白神山地がそれである。新しい菌を探し求めて、発酵文化を担う“菌ハンター”は、きょうも奥深い森に分け入っていく。

── 
秋田県総合食品研究センターは、バイオテクノロジーなどの技術を使って食品や酒類の試験研究を行うところだが、もうひとつ、自治体としては珍しく、微生物の採集や商品化にも取り組んでいる。高橋さんはその責任者だ。

高橋
「新種の酵母を発見することで世界的に有名な小玉健吉先生との共同研究で、白神山地から菌を採取したのがスタートです。1997年のことでした。小玉先生はもう亡くなられましたが、それ以来、白神山地で酵母や乳酸菌の採取を続けています」
[photo]
白神こだま酵母を使ったパンは年間30億〜40億円の売り上げがあるという
── 
「白神こだま酵母」が発見されたときは、国内のパン業界に革命が起きたとまで言われた。当時のパン作りは、輸入小麦を使うのが常識だった。国産小麦ではうまく膨らまないからだ。しかしこの白神こだま酵母を使うと、国産小麦どころか米粉でもふっくら、ふんわり。卵や牛乳を使わなくても大丈夫なのだ。

高橋 
「白神山地には、思わぬ特性を持つ微生物がたくさんいます。落ち葉がものすごい厚さに堆積していて、微生物には暮らしやすいからなんです。でも、それは逆にいうと、微生物にとって生存競争が厳しいということにもなります。白神山地は、少なくとも8000年間は環境が変化していません。この環境の中で彼らが生き抜くには、何か有利な特性を獲得しなければならず、われわれが採取するのは、そうした長い時間をかけて競争に打ち勝ってきた菌類です。白神こだま酵母の場合、それが人間にも有益だったというわけです」

── 
生物が環境に適応して進化を遂げるには、古い森であることが大きな条件の一つになる。たとえば世界最古のボルネオの森には、トカゲやヘビなど、翼がないのに滑空する生物がたくさんいる。一方、比較的若いアマゾンの森には、それが少ない。高い木々の間を移動するために滑空能力を身につけたボルネオの生物と同じことが、白神山地の微生物にもいえるのだという。

高橋 
「白神山地のブナの森は、一見なだらかですが、中に入ると非常に傾斜がきつい。そのため人が入れず、外界から隔絶されてきました。こうした環境は世界でも稀で、だからこそ人間に有益な菌がいる可能性が高いのです」

── 
高橋さんたちは、なるべく多くの場所から土を取るようにしている。落ち葉やコケなども採集の対象だ。持ち帰った土から菌を培養して解析するが、現在ストックしているのは、酵母と乳酸菌を合わせて1万5000株以上。

高橋 
「ずうっと同じ環境を保ってきた白神山地ですが、永遠にこの環境が続くわけではありません。温暖化の影響で、2100年には、いまのブナ林が消滅するという説もあります。少し状況が変わるだけで、微生物の生態系は一変する。だからいま、採取できる菌をなるべく多く保管しておく必要があるんです。マイナス81℃の超低温で保管すれば、菌は活動しないので老化して死ぬことはありません」
[photo]
パインジュースやマタタビ液などに白神こだま酵母を加えて、どのような作用が得られるかも研究中だ
[photo]
1万株以上の菌が眠る、マイナス81℃の超低温保管庫
[photo]
1回の培養では数種類の菌が生えるため、酵母だけ取り出して寒天培地で培養する

[photo]
ブナの原生林が広がる秘境、白神山地。1993年に世界遺産に登録された

── 
しかしこれらの菌を実用化するには膨大な費用と時間がかかる。そこで、いま取り組んでいるのが白神こだま酵母の新たな使い道を探る研究だ。

高橋 
「白神こだま酵母の新しい性質がどんどんわかってきています。まず、薬品や化粧品に使われるトレハロースというオリゴ糖の含有量が非常に多い。遺伝子組み換えをしてようやく達成できるほどの量を野生の状態で持っているんです。トレハロースは生体保護の役割を果たすので、熱や酸、乾燥にも強く、とりわけアルコール耐性は、清酒酵母より上です。さらに、白神こだま酵母の一番の武器は、このトレハロースが増殖に一役買っているという点です。白神こだま酵母はエサがあってもすぐに食べず、まず蓄えたトレハロースを食べて仲間を増やし、それから外のエサを食べ始める。これは他の酵母にはない、驚くべきメカニズムです」

── 
通常、酵母の増殖スピードは細菌の10分の1ほどだが、白神こだま酵母の初期の増え方は、細菌に匹敵するほど速い。厳しい競争のなかで生き残るのに有利だし、発酵が早く進むのは人間にとってもありがたい。

高橋 
「こうした強い性質のほかに、最近解明されたのが、臭いを消す作用があることです。魚や肉を保存するとき、生臭さを消すために味噌漬けや粕漬けにしますが、そうすると、素材より調味料の味が勝ってしまいます。しかし、白神こだま酵母を使った調味料なら薄味なので、素材の味を活かせます。パンに使うと、小麦の種類まで、ちゃんとわかるんですよ」
── 
こうした性質を生かして、最近“白神塩もろみ”という調味料が開発された。米、麹、塩に白神こだま酵母と乳酸菌を加えて発酵させたもので、肉や魚を漬けたり、ソーセージに練り込んだりと、いろいろな用途に使える。

高橋 
「ほかにも、化粧品に利用されるなど、実用化がどんどん進んでいます。今後はごみの分解や水の浄化、重金属の吸収などにも応用できるのではないかと考えています。白神こだま酵母の性質は、まだすべてが解明されたわけではありません。これからも期待をもって、研究を続けていきたいですね」
[photo]
Profile

たかはし・けいたろう 東北大学農学部卒。家業の醤油製造業を経て、1995年4月に秋田県総合食品研究所に入所。現在は白神微生物研究室の主席研究員を務める。白神こだま酵母の研究を進めるとともに、白神山地の微生物の収集、データベース化に取り組んでいる。

CONTENTS
------------------------------
コンテンツ
・野生ラッコ復活を見守る岬の番人  片岡義廣(写真家、NPO法人エトピリカ基金理事長 )
・大樹が見せてくれる希望 ジョン・ギャスライト(農学博士、ツリークライマー)
・コウノトリ、再び日本の空へ 松本 令以(獣医師)
・果樹の国から発信日本初の「4パーミル」活動 坂内 啓二(山梨県農政部長)
・ササを守り、京文化を次世代へ 現役囃子方研究者の挑戦 貫名 涼(京都大学大学院助教)
・葦船を編めば世界も渡れる 石川 仁(探検家・葦船航海士)
・虫目線で見た神の森 伊藤 弥寿彦(自然史映像制作プロデューサー)
・親子四代「ホーホケキョ!」いのちの響きを伝えたい 江戸家 小猫(動物ものまね芸)
・「長高水族館」は本日も大盛況! 重松 洋(愛媛県立長浜高校教諭)
・走れQ太! 森を守るシカ追い犬 三浦 妃己郎(林業家)
・消えた江戸のトウガラシが現代によみがえる 成田 重行(「内藤とうがらしプロジェクト」リーダー)
・山里のくらしを支える石積みの技 真田 純子
・溺れるカエルを救いたい!秘密兵器を開発した少女 藤原 結菜
・音楽界に革新!?クモの糸でストラディバリウスの音色に挑む 大﨑 茂芳
・ふるさとの空に赤トンボを呼び戻す 前田 清悟(NPO法人たつの・赤トンボを増やそう会理事長)
・大自然がくれた至福の味 カニ漁師奮戦記 吉浜 崇浩(カニ漁師、株式会社「蟹蔵」代表)
・カラスを追い払うタカ─害鳥対策の現場から 石橋 美里(鷹匠)
・タカの渡りを追う 久野 公啓(写真家、渡り鳥研究家)
・微生物が創り出す極上ワイン 中村 雅量(奥野田葡萄酒醸造株式会社 代表取締役)
・「海藻の森づくり」で海も人も健康に 佐々木 久雄(NPO法人 環境生態工学研究所理事)
・大学をニホンイシガメの繁殖地に 楠田 哲士(岐阜大学応用生物科学部准教授)
・面白くて、おいしい「キッチン火山実験」 林 信太郎(秋田大学教授、秋田大学附属小学校校長)
・世界で唯一、エビとカニの水族館 森 拓也(すさみ町立エビとカニの水族館館長)
・都会の真ん中に“山”をつくる 田瀬 理夫(造園家、プランタゴ代表)
・一粒万倍 美味しい野菜はタネが違う 野口 勲(野口のタネ/野口種苗研究所代表)
・都市の里山に宿る神々 ケビン・ショート(ナチュラリスト、東京情報大学教授)
・ムササビ先生、今夜も大滑空観察中 岡崎 弘幸(中央大学附属中学校・高等学校教諭)
・保津川下り400年─清流を守る船頭の心意気 森田 孝義(船士)
・小笠原の「希少種を襲うノネコ」引っ越し大作 小松 泰史(獣医師)
・チリモンを探せ! 藤田 吉広(きしわだ自然資料館専門員)
・スズメバチハンター走る! 松丸 雅一(養蜂家)
・東京湾のサンゴを見つめて 竹内 聖一(NPO法人 たてやま・海辺の鑑定団理事長)
・芝とシカのふしぎな関係 片山 一平(京都府立桂高校教諭)
・ドブ池ドブ川奇跡の復活炭博士が行く 小島 昭(群馬工業高等専門学校特命教授)
・「木一本、鰤(ぶり)千本」─豊かな海を育んだ海底湧水の秘密 張 勁(富山大学教授)
・わくわくドキドキ! 夏の夜の生きもの探し 佐々木洋(プロ・ナチュラリスト)
・かわいい変顔 虫目で見つけた! 鈴木海花(フォトエッセイスト)
・癒しの森でいのちを洗う 降矢英成(心療内科医)
・ブナの山が育てた神の魚 杉山秀樹(秋田県立大学客員教授)
・自然と調和する酪農郷 二瓶 昭(酪農家、NPO法人えんの森理事長)
・漁師が見た琵琶湖 戸田直弘(漁師)
・田んぼの恵みはお米だけじゃない 石塚美津夫(NPO法人「食農ネットささかみ」理事長)
・「結」の心を伝えたい 和田利治(屋根葺き技術士)
・多摩川復活の夢 山崎充哲(淡水魚類・魚道研究家)
・モイヤー博士の愛した島 中村宏治(水中カメラマン)
・白神山地が育む奇跡の菌 高橋慶太郎(秋田県総合食品研究センター主席研究員)
・ありがとう、ハチゴロウ 佐竹節夫(コウノトリ湿地ネット代表)
・ヤイロチョウの森の守り人 中村滝男(生態系トラスト協会会長)
・水辺って、こんなに面白い! 井上大輔(福岡県立北九州高等学校教諭)
・地熱染め 色彩の魔術 高橋一行(地熱染色作家)
・里山っ子ばんざい! 宮崎栄樹(木更津社会館保育園園長)
・金沢和傘の伝統を引き継ぐ 間島 円(和傘職人)
・「竹のこころ」を伝えたい ジョン・海山・ネプチューン
・クマのクーちゃん 人工冬眠大作戦! 小宮輝之(上野動物園 園長)
・まつたけ十字軍がゆく 吉村文彦(まつたけ十字軍運動代表)
・氷の匠──冬に育む夏の美味 阿左美哲男(天然氷蔵元)
・日本でただひとりのカエル捕り名人 大内一夫(カエル販売業)
・「村の鍛冶屋」の火を守る 野口廣男(鍛冶職人)
・杉線香づくり100年 駒村道廣(線香職人)
・空師(そらし)──伐って活かす巨木のいのち 熊倉純一
・日本ミツバチに学んだこと 藤原誠太
・満天の星に魅せられて 小千田節男
・ブドウ畑に実る夢 ブルース・ガットラヴ
・タゲリ舞う里を描いて 森上義孝
・ホタル博士、水辺を想う 大場信義
・左官は「風景」を生み出す職人 挟土秀平
・僕は「SATOYAMA」の応援団長 柳生 博
ムツカケ名人に学ぶ──豊穣の海に伝わる神業漁法 岡本忠好
・イチローの バットを作った男 久保田五十一(バットマイスター)

ご利用にあたってプライバシーポリシー
Copyright(C) 2000-2019 Seven-Eleven Foundation All Rights Reserved.